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ひとり部長のひとりごと

社会人1年目で社内起業を始めたひとり部長がその経験を語ります。Mac関連もつぶやきます。映画のレビューはサブブログに移行しました。世の中の明るいニュースだけをまとめたエントリーも始めました。

中公新書「キリスト教と戦争」を読んだ感想・まとめ

時事ネタ 番外編

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ひとり部長による映画のレビューや評価など。

ジャンヌ・ダルク [DVD]

リュックベッソン監督の映画「ジャンヌ・ダルク」。中世フランスの有名な女の子。熱狂的なキリスト教信者でありながらも、血みどろになって敵を殲滅する狂気の沙汰としか思えない彼女の姿が描かれた作品です。*1

はじめに

70億人のうち、実に3分の1がキリスト教徒です。これだけ多くの信者がいる世界最大の宗教、キリスト教の信者はなぜ「愛と平和」を祈りつつ、「戦争」ができるのでしょうか。

平和を祈りながら戦争を行う、一見矛盾した考えのように思えるこの奇妙な関係について、この本では、聖書の記述や歴史上の人物の言葉を取り上げながら、キリスト教徒がどのように武力行使を正当化するのかについて説明されています。

アーミッシュの「赦し」

キリスト教は「愛と平和」をうたっています。

2006年にアーミッシュというプロテスタントが住む地域で五人を射殺、監禁する事件が起きました。全米がこのニュースにショックを受けましたが、子供を殺された被害者の家族らは憎しみを顔に出すこともなく、「私たちは犯人を赦します」と宣言しました。

普通ならば考えられないこの発言に、世界中が驚きを隠すことができませんでした。

この彼らの絶対的平和主義はアーミッシュ特有の精神であり、世界中が驚いたということが、すべてのキリスト教徒にとって当たり前の事ではないということになります。

逆に、アーミッシュの人々のように振る舞うことは、犯人の暴力行為を認めてしまうとうことにもなり、「暴力を助長する行為」として受け止めることもできます

現実問題として「愛と平和」を実現するために、絶対的な平和主義では暴力を止めることができないのです。

「暴力」を持つ必要性との葛藤

したがって、時には「暴力」に対して「暴力」で返すことで「愛と平和」を実現する必要が出てきます。しかしこれは、元々の「非暴力」や「赦し」を説く新約聖書に反することになってしまいます。

アーミッシュのような人々を除くすべてのキリスト教徒はおそらく、この矛盾を抱えながら生きているのだと思います。

宗教と政治

キリスト教も、初めから絶対的な支持者を持って生まれたわけではありません。最初はいわゆる「新興宗教」的な位置付けで、頻繁に迫害の対象とされてきました。

しかし、徐々にその信者が増えていくにつれて、国の抱える軍隊にもキリスト教徒が増え始めました。4世紀にはローマ帝国の国教となりました。

国教とされたということはすなわち、政治と関わらざるをえなくなるという意味になります。

この時点で、「軍隊」を持たなければならない国と「非暴力」を訴えなければならないキリスト教の間に矛盾が生じます。したがって、キリスト教徒はどうにかして納得する形で「戦争」と関わっていく方法を見つけることを強制されました。

聖書という書物の厄介なところ

キリスト教の聖書は「旧約聖書」と「新約聖書」からなっていますが、旧約聖書はしばしば「殺し」や「暴力」の表現が現れているのに対し、新約聖書では全くと言っていいほどそういった文が見当たりません。

厄介なのは、著書も、書かれた時代も、背景も、目的も、それぞれ異なる様々な文sひょの寄せ集めによって一冊になっている点です。すなわち、自分の主張したいことを正当化できる一文を抜き出してきて、聖書の権威によって自説を補強する(=主の御言葉なのだ)ことが最も簡単にできてしまうのです。

旧約聖書の中には単なる戦争の肯定ではなく、民間人の虐殺や略奪・殲滅も勧めているとみられる文章があるのです。

旧約聖書の「シャローム」の意味

シャロームとは、ヘブライ語で「平和」に当たる言葉ですが、その意味は単純に「戦争がない状態」という意味ではなく、「繁栄」「長寿」「調和」をも意味します。したがって、それは外敵から守られているというだけの状態ではなく、正義と公平さ、有効と調和が保たれていることをも含む広い意味となります。

すなわち、シャロームは必ずしも「戦争」や「暴力」を排除するものではなく、戦いに勝利することも「平和」に含まれると、捉えることができます。

解釈による「暴力」の正当化

新約聖書には旧約聖書とはまるで逆に「暴力」や「戦争」を肯定している文章は見当たらないといいます。(僕はカトリックの幼稚園には通っていましたが、キリスト教徒ではないので聖書を熟読したことがありません。あしからず)

しかし都合よく解釈すればイエスが「戦争」を肯定しているとも取れる文章がいくつかあります。時には、「主は愛するものを鍛え、(中略)、鞭打たれるのです」という一節を持ってして体罰が正当化されたこともあるようです。

正当防衛という「暴力」の肯定

面白い事例が上がっていました。「善いサマリア人」のたとえ話です。

善きサマリア人のたとえ - Wikipedia

①ある人がエルサレムからエリコに向かう道中で(今日のマアレ・アドゥンミームのことであろうと言われている)、強盗に襲われて身ぐるみはがれ、半死半生となって道端に倒れていた。

祭司レビ人といった神殿にかかわる人々はこの人を助けずに通り過ぎた。③しかしユダヤ人から大変に嫌悪されていたサマリア人は、この半死半生の人を助けた。傷口の治療をし、家畜に乗せて宿屋まで運び、宿屋に怪我人の世話を頼んで費用まで出した。

これは決して正当防衛の肯定のために出てきた話ではなく、「どうしたら永遠の命を授かることができるでしょうか」という問いに対して「愛」を与えよというイエスの回答につながるお話です。

しかしこの話では、たまたまサマリア人が「強盗に襲われた後」の人を助けてあげたから「愛」を実践したとされているのですが、もし「襲われている最中」だったらどうしたでしょうか。というか、どうするべきだったのでしょうか。

強盗を話し合いで撃退できるはずはありません。かといって、サマリア人が代わりに自分の身ぐるみを提供すれば、襲われている被害者を助けることはできても、犯人の行為を黙認し、暴力を助長することになってしまいます。

やはり、この場合には正当防衛としてやむをえない範囲での「暴力」を持ってして止めるのがベストである、弱い人を守るために武力行使をすることはむしろ「正義」なのではないか、と考えられるのです。

「聖書」の持つ役割

かといって聖書に「正当防衛」を肯定する文があるわけではなく、人々の解釈によって様々に受け取れてしまうところが、厄介なところなのです。

したがって聖書というものは、それぞれの人生や社会状況と重ね合わせて読まれる書物であるということです。様々な人生経験を念頭に、それぞれの「平和」を描いて感じ、考え、行動するためにあるものが「聖書」ということになります。

政治と軍による「暴力」の正当化

信仰というものは単なる「個人の心の問題」ではなく、社会のあり様とも密接に関わっているということは明白です。宗教が社会に影響を与え、社会がまた宗教に影響を与え、時には宗教が社会そのものになっています。ローマ・カトリック教会東方正教会の対立も、もともとは宗教学的な対立からくるものではなく、単純にローマ帝国における東西分裂という政治的なイベントによるものですね。

国は土地を拡大していくことを目的として動くので、「軍」が必要になります。今も昔も共通することとして、「戦争」には「精神」が大きく関わり、重視されていることが挙げられます。この精神のタフさが勝敗を分けるといっても過言ではありません。

したがって、その「戦争」の中に「宗教的な支援」を持ってくることは自然な流れだったのです。というか、必要だったのでしょう。陣営が「本陣=神殿」と見立てたキリスト教世界のミニチュア版として存在していたのです。

でもこれはキリスト教が国教とされたローマ帝国時代のお話です。

初期のキリスト教と軍務の関わり

キリスト教が少数派だった時は迫害の対象とされ、ディオクレティアヌス帝(在位284-305)の時代に真っ先に狙われたのは軍隊にいたキリスト教徒だったのです。彼らは軍務を拒否していました。しかし一方で、「友を守れる力があるのにそれをしないならば、それは危害を加える者と同じ過ちを犯すことになる」と考える人もいたのです。

4世紀後半に徐々にキリスト教徒がマジョリティの立場になってくると、兵役はキリスト教徒にとっては当然の役務だと見なされる様になっていき、5世紀初頭にはすでに「軍隊に入ることができるのはキリスト教徒のみ」というルールまで敷かれるほどになっていました。

話をローマ帝国に持っていくと、この様な流れで「正義のために軍務についている人々を援助する」のがキリスト教徒の義務であると考えられてきたわけです。

トマス・アクィナス三条件

こいつがキリスト教の「愛」と「戦争」の抱える矛盾を解決する決定的な要素となっていると考えられそうです。この三条件は、戦争が正しいものであるための条件としてこう挙げられています。

  1. 正当な権威:戦争は私人に属する仕事ではなく、戦争を行う際の全権と決定は君主の権威によらなければならない。
  2. 正当な理由:攻撃される人たちは、何らかの罪のために攻撃を受けるに値するといった原因がなければならない
  3. 正当な意図:戦争は善を助長し悪を退けるといった意図のもとで遂行されなければならない

つまり、好戦的な国のリーダーが侵略相手の悪いと思う部分を独断罪だと認定し、その罪を駆逐するので善が助長されるのだと解釈するだけで、武力行使が正当な理由をもって行われたと見なされるということです。んなアホな。

現代の戦争においてもこの三条件の延長で戦争をするための条件が考えられています。

十字軍の時代

十字軍は皆さんもご存知の様に、11世紀ごろから聖地奪還という名目で本格的にパレスチナ地方へ遠征し、イスラム教徒の大虐殺を行ったキャンペーンです。

十字軍に参加した者には「免罪」が与えられ、そこはキリスト教徒にとって「安易な方法によらず苦しみと死と試練の中で信仰を証明する機会」であったと言われています。

軍の陣営をキリスト教世界のミニチュアに捉え、信仰生活を軍事的な技法で表現することにより、新参の修道士に修道院生活の厳しさを知らしめると同時にそこでの苦しみに「意味」を与え、修道士自身に己の修道段階を的確に認識させることができるものとして、「修道院」と「軍隊」は非常に親和性が高く、お互いに利用し合うことは都合が良かったのです。

結局なんなのか

結局のところ、「愛」と「平和」を語るキリスト教徒が必ずしもこれに従うべきとはだれも考えておらず、むしろ「正義」のための「武力行使」に参加することは義務とさえ考えられているんですね。

所詮人間である以上、生き残るためには「正当防衛」であれ、何らかの理由をつけた暴力を必要とするのが宿命であると筆者は結論付けています。

未解決の矛盾を背負い続けたまま現実と関わり、非難されたり称されたりしながらどうにか騙し騙しやっていくのが、キリスト教という文化の日常なのである。

 

読んだ感想

たまたまタイトルと検証内容が「キリスト教」を題材としたものだったので、キリスト教のことだけの様に思えるかもしれませんが、必ずしもそうではないと考えます。

平和を愛すると言われているイスラム教、殺生は許されないとされる仏教、どの宗教においても「愛」と「平和」を唱えることは基本的に同じです。しかし、それぞれの信じるものを都合の良い様に解釈し、本来の信仰とは懸け離れた暴力行為を行うことはできてしまいます。

ここ最近、イスラム過激派などによるテロ事件がたちませんが、そのほとんどはキリスト教世界に対する行為になります。その原点は、十字軍の時代にまでさかのぼります。

ところがつい先日にバングラデシュで発生したテロ事件では「日本人ならば殺されないだろう」との考えに反し、邦人が殺害されてしまいました。

実行犯が日本人やイタリア人を標的にしていたことが明らかになったということで、テロというものを私たちも他人事のように受け止められなくなってきています

 

2020年、東京オリンピックが開催されます。

今回、この「キリスト教と戦争」を読んだことにより、少しばかり「平和」と「武力行使」の矛盾に対する理解を深めることができたと思っています。 

テロはテロで起こされたところでどうしようもありませんが、このまま無宗教というフリをしている日本人が実は一番周りの宗教に対する認識が甘く、誤解や偏見を持っているのではないでしょうか。少なくとも、テロとは無縁の99%の人たちと上手くやっていくには、こういったことから理解する必要があると思います。

キリスト教と戦争 (中公新書)

キリスト教と戦争 (中公新書)